水野鈴芽は、紙袋をぎゅっと握りしめた。
女の子はこの日―――バレンタインデーに勇気を振り絞る。
それは鈴芽とて例外ではなかった。歩きながら、何度も深呼吸を繰り返す。
渡したことがないわけではない。
が、2年前のあれを「渡した」と数えていいのだろうか。もしかしたら、プリント類と一緒にゴミ箱行きだったかもしれない。
その思いを抱えたままに迎えた1年後、清麿は2月後半まで学校を休んでいた。
用意してはいたが、去年と同じように自宅まで行っても当人がいないことがわかっているのだ。
いつ帰るかもわからない人に、食べ物など渡せない。
ましてやチョコレートなど、「バレンタイン」という言葉を背負わない限り意味はなくなってしまうのだ。
鈴芽はそのチョコレートと想いを自分の引き出しにしまいこんで蓋をした。
そうして訪れた今年。まだ迷惑かもしれないという疑念は晴れていない。でも、用意はしてきた。
いつどう渡そうかと思案しながら校門をまたぐ。しばらく歩くと、下駄箱に入っていく清麿の姿が視界に映った。
―――大丈夫。
自分にそう言い聞かせるように息を吐く。呼気は白くなり、一瞬で消えた。
追いつくために足を踏み出し、下駄箱へ一歩近づこうとした時。
鈴芽は足をそのまま進められなかった。
上履きを取り出す清麿の手に、綺麗に包装された箱があったのだ。
清麿は上履きに履きかえ、包みをまじまじと見ながら歩き出す。
彼の背が目に見える場所から消えて、初めて鈴芽は自分が息を止めていたことに気付いた。
長い息とともに、鈴芽は思い出す。
今日が特別な日なのは、自分だけじゃない。
女の子はこの日に勇気を振り絞る。
それは、全国共通だった。
気を取り直すように上履きを履いてから、休みの度に鈴芽は割と忙しく校内を歩き回った。
合唱部の後輩のクラスを回り、お世話になったお礼を込めてチョコレートを渡す。
ちょっとした雑談で盛り上がり、後輩の最近の様子を聞いているとすぐに休み時間は終わってしまう。
中休みの終了1分前に教室に滑り込むと、真っ先に目に入ったのが奥で打ちひしがれている山中だった。
その時は理由はわからなかったが、
「っわ、スマン」
後ろから追突されて振り返った時に山中の行動の意味を理解した。清麿の手にはまた包みが1つ。
清麿とまともに目を合わせたのは、今日はこれが初めてだった。
鈴芽は頭が真っ白になった。
「ご、ごめんね!」
それだけしか言葉が出てこなかった。
何か言いたそうな清麿の目を避けてそそくさと自分の席に移動し、次の時間の準備を始める。
チャイムが鳴り、先生が来て授業が始まって、ようやく鈴芽の肩の力が抜けた。
昼休みになると、同じく午前中を後輩に当てていたマリ子が鈴芽の元に来た。お互いにプレゼントの交換会だ。
もらうとは思わなかった人にお返しをするために少し多めに用意していたというマリ子。
大方回って渡し終えたらしい彼女はさらにいくつかをキープしてから、 あまった数個を
「はいどーぞ」
影を背負っていた山中に渡した。山中は男泣きをして、マリ子に嫌そうな顔をされた。
しきりなおし、とばかりにマリ子が切り出す。
「…それで、高嶺くんは? 昼休みになるなり出ていったけど」
「登校してきた時に、机の中に果たし状が入ってたんだそうだ」
「…それ果たし状じゃないでしょ」
早速もらったばかりの包みの封をきる山中。マリ子は様々な意味で呆れていた。
山中はそんなマリ子を気にもせず、中のマカロンを1つ頬張ってから会話のキャッチボールに戻る。
「呼び出してんだから果たし状と一緒一緒。で、水野は?」
「えっ?」
不意に話しかけられて、鈴芽の返事が裏返る。同時にマリ子も素っ頓狂な声を上げた。
「まだ渡してないの? 真っ先にあげるべき相手でしょ!」
…それは…そうなんだけど…。
鈴芽はどんどん尻込みしていた。
休みが終わって教室に戻ってくる度に、清麿の手元には包みが増えている。
他の子はみんな勇気を振り絞っているが、鈴芽は勇気が出せずにいた。
何人の勇気を受け取ったんだろうか。そんな清麿に、迷惑に決まっている。
「かるーく渡しちゃえばいいのよ」
あたしみたいに、とマリ子が言う。山中がショックを受けていることは気にしていない。
マリ子のようなスタンスでいいことも分かっている。それでも、鈴芽はうんとは言えなかった。
だって、おまもりについては清麿ははっきりと「ありがとう」と言ってくれたのだ。しかも、2度も。
でもこれに関しては何の反応もなかった。つまり、もらっても嬉しくなかったのだ。
なら、押しつけることに他ならない。
「…。でも、高嶺くんも忙しそうだし」
実際その通りだ。鈴芽は自分にそう言い聞かせる。
手紙の差出人と会えば昼休みは終わるだろう。
そうすれば放課後までノンストップ。きっとそこでも勇気を出して清麿に声をかける人たちがいる。
清麿は、その女の子たちにどう応えるのだろう。
「らしくないわよ。なんかあったの?」
鈴芽は、心配そうに自分を見るマリ子に「なんにもないよ」と笑って答えた。
「渡すタイミングがあれば渡すから、大丈夫」
そのタイミングが訪れた時に、自分は勇気を振り絞れるのか。
わからないが、鈴芽はそう言った。
結局そのタイミングは訪れないまま、放課後がやってきた。
すっかり軽くなった紙袋の中は2つのみになっていた。ひとつは清麿で、もうひとつはガッシュ宛だ。
それを見て鈴芽は思い至っていた。2年前に清麿の母を通して渡したように、ガッシュを通して渡してもらえばいいんじゃないか。
放課後の人の流れで清麿を見失ってしまっていた鈴芽は、それを実行するべく早くに学校を出た。
最近、ガッシュが通学路途中にある公園で清麿の帰りを待っていることはよく知っていた。
清麿より早くについて、ガッシュに渡して帰る。これでいい。これで義理は果たせる。
あとは何事もなかったように、明日の朝「おはよう高嶺くん」から始めればいい。それでいい。
公園の入口にから数歩進むと、ガッシュがすぐにこちらを見つけて駆け寄ってきた。
ガッシュは本来なら一緒にいるであろう清麿を探して、きょろきょろとあたりを見た後に鈴芽を見上げた。
「清麿は一緒ではないのか?」
「高嶺くん忙しそうだったから先に帰ってきたの。ガッシュくん、」
しゃがみこんでガッシュと目線を合わせ、鈴芽は紙袋からガッシュ用の包みを取り出し渡す。ガッシュは大きな瞳をらんらんと輝かせた。
「ヌオオ、ありがとうなのだ! 開けてよいか?」
頷くと、ガッシュは包装のリボンを解いて中身を出す。
クッキーの詰め合わせを選んだことは大正解だったようで、ガッシュは全身で喜びを表した上でクッキーをじぃっと見た。
「おいしそうだのう…」
「食べていいのよ?」
その言葉を待っていましたと言わんばかりにガッシュはさらに顔を明るくして封を切った。
鈴芽はその様子を見守りながら、最後の1つとなった包みを取り出す。
最後の最後まで迷った。でも、これでいいのよね。
そう自分に言い聞かせて、ガッシュに差し出した。
「あとね、これを高嶺くんに渡してほしいの」
「ウヌ?」
ガッシュは目を鈴芽に向ける。もぐもぐ、と口の中を飲み込んでから言葉を続けた。
「私は構わぬが、学校で渡さなかったのか?」
「…今日は全然話もできなくて」
嘘は何1つとしてない。ただ、自分から話しかけようという努力はあまりしていなかったように思う。
おまもりを渡すのとはわけが違うのだ。今日という意味が、鈴芽に重くのしかかっている。
一昨年のあの日よりは温かかった今日は、夕焼けが空を綺麗に朱に染めていた。明日も晴れるのだろう。
だから、いいのだ。
「…今日はこれだけなの。ガッシュくんも、寒くならないうちに帰ってね。高嶺くんも遅いと思うし」
「少し待たぬか? 清麿はここに寄るが」
「うん、いいの」
立ち上がって、空になった紙袋を小さく折りたたんで。
「高嶺くんによろしくね」
「う、ウヌ…」
ガッシュは何かを言いたそうにしていた。でも、今日はいいの。と鈴芽は更に自分に言い聞かせる。
マフラーを今一度巻き直し、別れの挨拶をしてからガッシュに背を向け、歩き始める。
が、鈴芽の足は公園の出口に届かなかった。目の前に清麿が現れたのだ。
びっくりしたのは向こうも同じらしく、鈴芽に気づいた清麿は足を止めてぽかんと口を開けていた。
おそろしく長い沈黙が流れる。その中で、鈴芽は頭を必死に回転させていた。
渡すべきものはガッシュに渡してしまったのだ。
ここでできる最前と言えば、「私帰るね」と言うことしか思い浮かばない。
なのでそう言おうとしたら、清麿に言葉を上書きされてしまった。
「…えーと、バレンタインの起源って知ってるか?」
「え?」
清麿の発した脈絡のない質問に、鈴芽は目を点にする。
我にかえってぶんぶんと首を横に振ると、清麿は早口にまくしたてた。
「起源も諸説あるんだ。その諸説どれにも共通してるのは古代ローマのルペルカリーア祭という、結婚の女神ユーノーや豊穣の神マイアに由来する祭りなんだが、宗教的観点からその祭りが異教だと見なされそうになった時に、カトリックの司教の殉教日だったり、男女関係に結びつけて祭りを存続させたのがバレンタインの源流だと言われている。だから元々は海外の行事で、それに日本人が目を付けて、商業として発展させたのが現代の日本のバレンタインデーなんだ。で、日本が真似した祭りを起源とした欧米のバレンタインデーには、日本のような決まり事はまったくない。単純に親しい相手に日頃の感謝を込めて贈り物をするというだけの日なんだ。ちなみにホワイトデーもバレンタインデーにあやかった日本独自の風習で」
た、たかみねくん…?
突然聞かれ、突然始まった清麿による「バレンタインデー講習」に鈴芽はあっけにとられていた。
隙さえあればへぇ〜と反応したかったが、清麿はそんな相づちを打つ隙さえ与えてくれなかった。
清麿がどこで息継ぎをしているのかもわからない。言葉が矢継ぎ早に飛び出してくる。
清麿に渡すべきものをガッシュに渡してしまったということも忘れ、鈴芽は立ち尽くす。
「…清麿、そんなに一度に言われてもわからぬぞ」
鈴芽の足下にいつの間にか寄ってきたガッシュが、むむむと眉を寄せて鈴芽の気持ちを代弁した。
「清麿はスズメに何が言いたいのだ?」
その言葉で、それまで饒舌に動いていた清麿の口がピタリと止まった。
歯切れが急に悪くなり、曖昧に言葉を濁している。
「男らしくないのう、はっきり言えばよいのだ」
「…………」
清麿は今度こそ黙ってしまった。
どうしよう、と鈴芽が迷っていた数瞬の後、清麿は制服の内側のポケットに手を入れて。
「…要するに、今日は本来は誰から何をあげてもいい日なんだ。だから、これ…もらってくれないか」
そう言いながら清麿が鈴芽に差し出した手には、モチノキ遊園地のチケットがあった。使用期限は4月末だと書いてあるのを鈴芽は見る。
「2枚持っててさ。受験も―――全部終わってから、一緒に行かないか?」
「…え?」
改めて清麿を見上げる鈴芽。目が合うと、清麿は目をそらしてしまった。
足元でガッシュが「私も行く」と騒いでいるのをうるさいと一喝してから、清麿は頬を掻いた。
「…結局もらったお礼できてなかったし、さ」
たった一言だった。
でもその一言で。
ただその一言で、灰色だった2年前の記憶に色がついた。
「気にしてはいたんだ。…遅くなってスマン」
最後に付け足された清麿の言葉に、鈴芽は慌てて首を振った。出されたチケットを受け取り、握り込む。
お礼を伝えたいのだが、気持ちがうまい具合に表現できない。嬉しいやら泣きたいやら、色んな感情が鈴芽の中でまぜこぜになる。
ふと、スカートを引っ張られた。ガッシュがこちらを見上げて、包みを突き出している。
「スズメ。これは返すのだ」
―――女の子は今日この日に勇気を振り絞り、ありったけの感情を包んだプレゼントを渡す。
清麿が不思議そうな顔をしているのを横目に、スズメはガッシュからその包みを受け取った。そして、改めて清麿に向き直る。
「…これ、高嶺くんの分。ガッシュくんに渡して帰るつもりだったの。高嶺くん、今日は忙しかったし」
えへへ、とこぼれる感情は照れと、自分自身への失笑。
今日1日、なんてくだらないことを考えていたんだろう。
そんな風にも思えてくるのだから、恋する乙女のパワーは計り知れない。
自然と、鈴芽の顔は綻んだ。
待ち人おとづれなく来る
鈴芽は笑顔で帰っていった。去る鈴芽に2人で手を振り返し、鈴芽の姿が随分遠くなったところで、
「……ハァァァァァ〜……」
清麿が突然巨大な溜息をついた。
ガッシュはぎょっとする。
「ど、どうしたのだ清麿」
「…色んな意味で疲れた…」
もう一度、清麿には珍しい巨大な溜息。
「スズメが、清麿は忙しそうだったと言っておったぞ。今日は何があったのだ?」
「確かに、忙しかったは忙しかったんだが…学校でのことよりも、正直今の方が緊張したぞ…」
言って清麿は、手に持つ小包を見る。
かわいらしく装飾を施された四角い箱だった。
「何かをあげることって、こんなに疲れるんだな…」
そうして今一度、息を吐いた。