ハッピーイースター!
イースターを祝して、僕ら"悪戯仕掛人"から皆様に、ささやかながらプレゼントをお送りします!
プレゼントの中身? 開けてびっくり、それは内緒。
よいイースターを!
ぶすっとした顔で、リリーは大広間のグリフィンドールのテーブルに乱暴に着席した。
「ハッピー…イースター…?」
その様子を見て、びくびくしながらピーターが声をかける。
「残念ながらアンハッピーよ」
リリーは明らかに怒った声色で返答し、ピーターと、その隣で優雅に朝食を嗜むシリウスを睨んだ。
「誰? ベッドの中にエッグを仕掛けたの。おかげでキリストもびっくりの目覚めだったんだけど」
「そりゃハッピーじゃないか」
日刊預言者新聞を眺め、トーストを頬張りながらシリウスが返答した。
「あれ以上にサプライズな目覚めを俺は知らないね。本でも書いたらどうだ?」
「…あんたが買うの?」
「いや、ジェームズが一人で二百冊ほど」
真面目な顔を崩すこともなく言うシリウスにリリーは諦めたように首を振り、不貞腐れたまま周りを見渡した。
「…肝心の聖人気取りはどこ?」
「皆に福音を届けるために、リーマス引っ張ってまた仕掛けやってる」
飄々としたシリウスとピーターは対照的で、リリーをちらちら見ては不安そうに目を伏せる。
リリーもトーストに手をつけながら返答した。
「どうせ、福音どころか凶報撒き散らして―――」
その発言を遮るように、大広間の一角がどよめいた。
つられ、三人だけではなく大広間中の視線がそちらに移動する。
わあっと盛り上がる集団の内側で何が起こっているかはわからない。
が、彼らが喜んでいることだけは確かだった。
「どうやら奴らにとっては福音らしい」
とシリウスが呟き、リリーは深く息を吐いた。
十字架に梁りつけられて死ぬまでは、イエス・キリストは確かに人の子だった。
神は自身を人の子としてこの世に送り込み―――というのは今だから言えること。
当時を生きる人々にとっては、未来の救い主は自分と同じ「人の子」でしかなかった。
事実、イエスは人の子として苦楽を経験し、人の子として罪を背負い、人の子として死ぬこととなる。
その時、初めて人類は「最初に犯した罪」を赦されたのだ。
そしてイエスは墓から蘇り、世界中に福音と恵みを述べ伝えた。
今日はその復活を祝い、感謝する日。
……なんていうのを律義にしていたのは今や過去の話だ。
現代のイースターは「イエスの復活」を「枯れ木に花が芽吹く」ことに見立て、春の訪れを喜ぶ祭りへと変わった。
まるで罪が恵みに変わったように元あったものが全く形を変えたが、誰も気にしないどころか、むしろ祭りは華やかさを増していった。
結局、人は嬉しいことは祝わなければ気が済まない性質なのだ。
しかし、リリーの胸を占めるのは焦燥だった。
シリウスがようやく新聞から顔を上げ、端整な顔を顰める。
「…そんな怖い顔すんなって。ほら、これやるから」
そう言い、シリウスはエッグスタンドに置いてある卵を示した。ピーターがシリウスを見て、シリウスはそのピーターに目配せをする。
リリーはこれ以上寄りようがない眉を更に寄せながら返事をした。
「……もう卵は嫌よ」
「人生長いんだから卵嫌いは苦労するぞ。騙されたと思って、な」
リリーに目を戻したシリウスは、今一度卵を指で示した。リリーは深く溜息をつく。
「…まったく、どの口が言うのよ」
と言いつつ、示された通りにリリーは卵を手に取り掌の中で転がした。
何の変哲もない卵。でも何か仕掛けが施されているのは明らかだ。
「…どうすればいいの?」
「そりゃ、普通に食べれば」
…そりゃあ、そうだけど。
リリーはどこか釈然としない気持ちで卵を見つめる。だが、見つめたところで答えが返ってくるわけではない。
ここに来てから三度目の溜息をつき、リリーはテーブルに卵を打ち付けた。
カン、カン。
殻にヒビが入ったかどうかを確認するべく、持ち上げて顔に寄せる。
「スリー」
シリウスがする妙なカウントが耳に届いたのと、卵が弾けたんだのはほぼ同時だった。
ばしゃっ、と液体が飛び散る音がしたのは、さらに同刻だった。
「……」
リリーは反射的に閉じた目を開ける。
やけに、顔が冷える。顎を伝う水滴、前髪から滴る水分。重たくなった頭。
何が起こったかは、火を見るより明らかだった。
濡れた前髪を掻き分け、リリーはシリウスを睨む。
ひゅう、と口笛を吹くシリウス。
「お見事」
「…余計卵嫌いになりそうなんだけど」
「そうか、じゃあこれからはお前の分も食べてやるよ」
にやりと笑んだシリウスの顔面に砂糖壺を投げつけたい衝動を、必死に抑えつける。
「あ、あの、中身は僕らも把握してなくて、ほんと、その、」
いっぱいいっぱいの状態で言葉を紡ぎ、ごめん!と頭を下げて、ハンカチを差し出したピーター。
その手を冷めた目で一瞥すると、リリーは右手でポケットから自分のハンカチを取り出した。
ライトハンド
イースター休暇だからか、大広間からは人はなかなか引かなかった。
課題をこなすにしても、沈黙の重い図書室でするより、開放的な大広間で春の穏やかな陽射しを浴びながら、マドレーヌを片手にする方が好きな生徒が多いのだ。
リリーも例に漏れず―――リリーの場合は、日光を浴びる理由が違ったが―――朝食から軽食へと変わった長テーブルの上に課題と資料を広げる。
リリーの頭は流石に完全に乾燥するまではいかなかったが、それでも傍にいた他の寮生の協力もあり、風邪を引くことは免れる程度にはなった。
寮へ戻るのも面倒で、リリーはそのまま当初の予定であった勉強を続行することに決める。
シリウスとピーターはとっくの昔に卓を離れ、周りの寮生もそれぞれ思い思いの場所へと散っていた。
自分の周りを、課題をしやすい環境に整える。必要な本を積み、インク瓶を鞄から出し、羊皮紙を目の前に広げる。
この休暇中の課題のリストに目を通したリリーの眉が寄った。
ルーン語の課題のことで、シリウスに聞かなければならないことがあったのを忘れていた。
が、朝の今でシリウスを頼るのは癪だ。
にたにたと笑ったシリウスを思い出し、リリーはイライラを羽根ペンに託し、その羽根ペンの先をインクに浸した。
一人だと比較的常識人で、面倒見もいいのだ。
誰か、親しい友人と一緒だと調子に乗る。
リリーのシリウスへの評価は、上がっては下がり、を数年もの間繰り返し続けていた。
その特性上株が下がり続けることはなかったが、上がり続けることもなかった。
まあ、ずっと底辺を漂い続けているジェームズに比べれば遥かにましなのだが。
はぁ。
リリーは息にすべての感情を乗せて吐き出す。少し気楽になった。
羽根ペンをインク瓶から引き抜き、右手で握って羊皮紙の上を滑らせた。
題目は「変身術における質量保存の法則」。
魔法といえども、全てを思い通りにできるわけじゃない。自分がしたいことも失敗するし、自然界の法則も無視はできない。
無から有を生み出せるのは救世主様だけだ。
あったものをなくすのは、誰にでもできる簡単なことだけれど。
そう、積み上げた信頼を一瞬でお釈迦にするシリウスのように。
バスケットからマドレーヌを一つ左手に取り、頬張ってからリリーは筆を走らせはじめた。
時折持ち合わせた本を広げ、それを参考にしながら文字を並べていく。
肌に染み込むような優しい春の陽射しに、自然とリリーの苛立ちは浄化されていった。
レポートを書き上げた頃には、すっかり太陽は頭上にあった。
傍に置いた懐中時計を確認する。
次の課題に取り掛かるには、少し中途半端な時間だ。
午前の部は終わりにしよう。
そう決めリリーはペンを置き、今は乾いた前髪を撫でた。
卵の殻に収まるにしては、結構な水量だった気がする。
バケツ一杯とまではいかないが、グラスに一杯程度の量はあった。
それに、自分から弾け飛んだ。内側から圧縮の呪文でもかかっていたんだろうか。
卵の殻を割らずに、内部に仕掛けを施すのはかなりコツがいるだろうに。
少し考える。
…そもそも「卵」であることを疑うべきか。
そこまで思い至り、リリーの胸にすべてが落ちた。
最初から卵ではなかったのだ。
卵の形の球体を造れば、今日という日はその球体を全て卵に見せてしまう魔力を持っている。
その球体の中に色々と詰め込んでいるのだ。どうやっても入らないように見えても圧縮の魔法を使えば容易い。
発動のタイミングまでは流石に分からないが、仕組み自体は簡単だった。
すぐにでも見抜けなかった自分が悔しい。
目の前に置かれたバスケットの中にあるマドレーヌを手に取りながら、リリーは軽く息をついた。
ややこしく考えることも大切だが、結局物事は簡単な所に還ることとなる。
キリストの復活に対する祝福というお堅い行事も、新しい季節を祝うお気軽なものに変わる。
嬉しい事なんだからみんなで分け合おうじゃないか。
陽の光が、神の恵みが隔てなく皆に降り注ぐように。
リリーはマドレーヌを口に放り咀嚼した。
三つ目のマドレーヌに手を伸ばした頃、ふぅと肩を回しながらジェームズと、それについてリーマスが大広間に到着した。
今日を一番謳歌しているであろうジェームズだが、別に仮装をするわけでもなく、至って普段通りのジェームズだった。
癖の強い髪、何の変哲もない黒縁の眼鏡。特筆すべきことは何もない。
隣につくリーマスは相も変わらず疲れきった顔をしている。
一週間ほど前に増えた傷は少し落ち着いたようだ。
「はー、おなかすいた」
「ずっと動いてたしね」
満面の笑みを浮かべるジェームズに微笑を顔に貼り付けているリーマス。
この顔だけ見れば、今日は喜ばしい日だと誰もが思うだろう。
そんなジェームズがリリーを見つけると、さらに顔色を明るくした。
「やあ、リリー! ハッピーイースター!」
ベッドの上で割れた卵が脳裏を過る。
リリーの機嫌は朝ほど悪いものではなかったが、それでも反射的に眉が寄った。
「…随分とハッピーそうね」
「今日という日を喜ばない人がどこにいるんだい?」
ご機嫌なジェームズは、ジェームズはリリーの向かいへと腰かける。
リーマスはリリーに軽く「おはよう」と挨拶すると、マドレーヌのバスケットに手を伸ばしているジェームズの左隣に座った。
手に取ったマドレーヌを口に放り込んでから、ジェームズはうんうんと頷いた。
「雪が溶けて、新芽が芽吹いて、冬眠していた動物も目を覚ます。復活を告げるにはちょうどいい季節じゃないか! 僕は春が一番好きでさ、―――」
いつも以上にオーバーリアクションで、しかも普段もよく喋るがそれ以上に饒舌だ。
かなり煩わしい。
思わずリーマスを見ると、リーマスは困ったように笑いながら首を振った。
止められないらしい。
―――いや、止めようという気がないだけか。
窘めることもせず、かといって一緒に調子に乗るわけではない。
よく言えば世渡り上手、悪く言えばどっちつかず。
リリーのリーマスに対する評価はそんなものだった。
悪い人ではないのはわかるんだけど。
なんでこうも一癖も二癖もある人が周りに揃っているのか。
リリーは今日何度目になるかもわからない溜息をついた。
まだぺらぺら喋るジェームズは、口をよく動かしながら再度バスケットに手を伸ばし、そしてそこでようやく言葉を止めた。
「こんなところにも」
バスケットから引いたジェームズの手の中には、白い球体が握られていた。
「そうだリリー、楽しんでくれてる?」
「……おかげさまでね」
感情を込めずに返事をして、リリーは水差しに腕を伸ばした。空になったコップに透明な液体を注ぎ込む。
「一生忘れられないイースターになりそう」
「本当かい? それはよかった! あと、この後―――」
朝の件を知らないからか、厭味は全く通用しなかった。
能天気で何も知らない、でも悪意も何もない笑顔でジェームズはぺらぺらと喋る。
リリーはその声をバックミュージックにし、水をじっと睨んだ。
これをこいつにかけたらどうなるだろう。
少なくともこの言葉の波は止まるだろうか。朝のお返しにもちょうどいい。
しかし、彼女がそれを実行する前に音が止まった。リリーは目線を上げる。
ジェームズの傍に朝の不快の元凶と、その元凶について歩く一人がいた。
「まだやってないのか」
「もうお昼過ぎたよ?」
「え? …あ、ほんとだ。まだテーブルの上が間食モードだから全然気付かなかった」
ジェームズは腕時計に目を落とすと、手に持っていたままのエッグをピーターに手渡した。顔を上げ、辺りを見回す。
ピーターはそのエッグを慎重そうに掌で転がし、ほっとした表情を浮かべるとジェームズの右隣に座った。
そのピーターの右に着席し、頬杖をついたシリウスは横目でリリーを見た。
リリーはむっと口を尖らせると、手元の羊皮紙をくるくると巻きだす。
もうじき昼食だが、目の前にあるこの顔を眺めながら食事をする気にはとてもじゃないがなれない。
広げていた本を閉じ、インク瓶に蓋をして、羽根ペンを―――
しまおうとしたとき、突然響き渡った声にびくりとリリーは反応した。
『―――えーあー、テストテスト』
椅子の上に立ち上がり、ジェームズがいつの間にか声を拡声していた。
『大広間にお集まりのホグワーツ生徒諸君、先生方! こんにちは、そしてハッピーイースター!』
大広間中に響き渡る声で口上を述べたジェームズは、椅子の上でぐるりと大広間を見渡して、満足そうに笑みを浮かべる。
『ああ、立ち止まる必要はないよ。普通にしててね。あ、僕からの祝福なんて受け取れないって人は、大広間を出た方がいいかも』
突然のことに立ち止まっていた生徒がぱらぱらと動き始め、卓に座り始める。
逆にスリザリンのテーブルからは人がぞろぞろと立ち上がり、ぶつぶつ文句を言いながら大広間を出て行った。
その中にセブルスの顔があるのを、リリーは確かに見た。
見えなければよかった、とリリーは目を閉じた。
一瞬で胸の内を満たした複雑な感情を整理してから目を開け、そこで気付く。
―――しまった、私が出るタイミング逃した。
その時には既に最後の生徒の背中が消えていて、リリーは一人後悔した。
そんなリリーに気付くわけもなく、ジェームズは明るく続ける。
『ご協力ありがとう! 先生方も、今日この時大広間の使用許可を出してくださって感謝します!』
教員テーブルに目を向けて大きく右手を振り回したジェームズは、間を取って続けた。
『何を隠そう、僕ことジェームズ・ポッターは春が一番好きなんだよね。やっぱり、外に出れる開放感ってのがたまらないんだ。室内に篭ってるのは肌に合わないし、』
先ほどリリーが聞き流したようなことをつらつら述べ始めたジェームズ。ピーターが隣から肘で突くと、
『おっと』
と咳払いをした。
『…話題が逸れたね。とにかく、今日この日は僕自身にとっても喜ばしい事なんだ。そこで、皆とも分かち合いたいと思って』
言うと、ジェームズは杖を頭上に掲げた。
『皆さん頭上にご注目! 今日に相応しい、いい天気だね!』
会堂の目が上に移る。リリーも同じく、天井を見上げた。
空は青く、ジェームズの言うとおりに「春らしい」天気だ。
何が起こるんだろうとわくわくしている生徒、どうせくだらないことが起こるんだろうと期待していない生徒。
残念ながらリリーは後者だった。
『せーのっ!』
ブン、とジェームズが杖を持つ右手を大きく横に振るった。
青空が、白に変わった。
観衆がざわめく。
その白は、緩やかに会堂に降ってきた。
純白の百合は、茎に白いリボンを携え、リリーの前にもふわりと着地した。
なにこれ。
リリーの思考は止まった。
興奮と歓喜の声の中、ジェームズは椅子に座り直した。
「いやー、いいことした後ってのは気分がいいね!」
そして笑顔で言う。
ピーターは辺りに落ちた百合を拾い集め、手近な花瓶へと挿した。
シリウスは会堂を見回し、観衆がどういう反応をしているか見ている。
リーマスは手の中に落ちてきた百合を回す。
「こういうシンプルなのもいいね」
「だよね!」
リーマスの呟きに、ジェームズは素早く反応を見せた。
「僕ももう十七だし、初心に立ち返るべきだと感じてさ」
笑みを顔にたたえたまま続ける。
「魔法って、誰かを喜ばせるために使うべきだと思うんだ」
その言葉は、賑やかな会堂の中でも確かにリリーに届いた。
放心状態だったリリーは前を見る。
「魔法は、使ってる人次第で良くも悪くもなる。僕だって悪用しない、なんて断言できるわけじゃないから、綺麗事を言うつもりもないんだ。でも」
ジェームズは大広間を見渡す。
「…今僕が感じた気持ちや、皆が感じてくれた気持ちを、忘れないでいけたらいいなって思うんだよね」
やっぱりスリザリンたちにも届けたかったな、とぼやくジェームズ。
随分崇高な演説だな、とシリウスが茶化した。
「でもその気持ちわかるよ」
とピーターが座り直す。
「…やっぱり、楽しいのが一番だから」
「まさにそれに尽きるよ、ピーターよくわかってる!」
と、ジェームズは、自分の右側にいるピーターの頭を右手でくしゃくしゃと撫で回した。
やめてってば、と抗議するピーターに構わず、ジェームズは上機嫌で髪を乱す。
それを笑って見ているリーマス。
リリーは、その流れをただただ見つめていた。
たった一分間のやり取りの中に、普段から感じるもの、魔法を使える素養があると知った時の自分の気持ちがあった。
それが、『あの』ジェームズ・ポッターの口から飛び出てきたことに驚いた。
ただただ、驚いた。
自分が、魔法を使えない彼女に届けたかった思いが、そこにあった。
いつの間にか擦れ違ってしまった幼馴染に届けたい思いが、そこにあった。
依然としてじゃれあっているジェームズとピーターの横で、頬杖をついたままのシリウスがこちらを見ている。
その視線に気付き、リリーは視線を移した。
目が合ったことに気付いたらしいシリウスは、にぃ、と口角を上げて口だけを動かした。
(惚れたか)
その動きを正確に読み取ったリリーの頬がかっと熱くなる。
「―――ッ!」
リリーは衝動的に立ち上がると、手近にあった自分のコップを右手でひっつかみ、シリウスに向けて中身をぶっかけた。
不意打ちにシリウスは身を引くことすらできなかった。
ばしゃあ、と中に入っていた水がシリウスに掛かる。
自分の気持ちの整理も付けず、自分の荷物も持たぬままに、リリーは席を立ち大広間を後にした。
聞いてもいないのに耳にこびりついて離れない、シリウスの台詞をひたすら反芻させながら。
ライトハンド
ピーターは仰け反り、目を大きく見開いていた。
ジェームズは何度も眼鏡の奥の目をしぱしぱさせる。
リーマスの笑顔も固まった。
「え? どうしたの?」
シリウスは掌で水滴をはらうと頭を振る。水滴が飛び、隣のピーターは腕を上げて水滴をガードした。
「ちょっと、パッドフット!」
「これが一番楽なんだ、察しろ」
ピーターはぶつぶつ文句を言いながらも、朝はリリーに拒絶されたハンカチを差出した。
シリウスは礼を述べながらハンカチを受け取る。今度はきちんと受け取られたことにピーターはほっとする。
「朝の仕返し?」
「…や、ある意味洗礼だなこりゃ」
シリウスは真面目な顔を作り、真面目な声色で返事をする。
「俺もついに、聖人に生まれ変わる時が来たか」
「…いくら復活の日でも、それは無理なんじゃないかな…」
「ていうか、朝の仕返しって何? え? というか、リリーは喜んでくれてなかったって事? え?」
シリウスの冗談に呆れ顔で返すピーター、福音が届かなかったのかと焦り始めるジェームズ。そしてシリウスの話す意味を理解しかねて気難しい顔をしているリーマス。
それらを一瞥し、シリウスは息を吐く。
まだ水分を含んだ前髪を左手で掻き上げ、ピーターが活けた百合だらけの花瓶に目をやった。
「―――生まれ変わる、か」
ぼそりと呟いたシリウスのその言葉に、言葉以上の意味があったことを知る者はいなかった。